バラックが幸運である、これだけの理由。

 さらにバラックの場合、決勝にたどりつくまでの幸運にも恵まれている。2002年の日韓W杯、ドイツは決勝でブラジルと当たるまで、一度も強豪国と対戦しなかった。2007−2008シーズンのチャンピオンズリーグも、準決勝で対戦相手が「まさか」のオウンゴールをしてくれたおかげで決勝進出。ユーロ2008でも、グループリーグから対戦相手に恵まれていたことが、決勝まで勝ち残れた大きな理由の一つだった。
 試合以外でも、彼はキャリアの要所要所で幸運に恵まれてきた。20代前半の頃は、クラブ(レヴァークーゼン)での活躍を、なかなか代表で再現できずにいた。そんなおり、ルディ・フェラーが代表監督に就任。これがバラックにとって代表での転機となった。レヴァークーゼン出身のフェラーは「露骨なレヴァークーゼンびいき」と言われるほど、同クラブの選手を大量 に代表に選出(当時、レヴァークーゼンがリーグ首位を独走していたことも大きい)。息のあったクラブの同僚に囲まれたバラックは、同僚たちにサポートされる形で、代表でも遺憾なく実力を発揮できるようになった。もしあのときフェラーが監督になっていなければ、バラックは「クラブでは活躍しても、代表ではイマイチの選手」として終わっていた可能性が高い。
 フェラーの後任にクリンスマンが就いたことも、バラックにとって幸運だった。彼が選手として大きく成長したのは2004年、カーンの後を継いで代表キャプテンに就任したことが大きい。だがそれも、クリンスマンが監督に就任したからこそ。それまでもバラックは「次期キャプテン」と言われていたが、2006年のドイツW杯まではカーンがキャプテンであり、正GKだと思われていた。当時のカーンは、それほど絶対的な存在だった。彼を正GKから外し、キャプテンマークも取り上げることなど、ドイツ代表の革新を目指すクリンスマン以外のいったい誰にできただろうか。そして、そうしたクリンスマンの「革命」の恩恵をもっとも受けた選手のひとりが、予定より早くキャプテンになったバラックだと思うのだ。

 クリンスマンが監督になったことで、バラックが受けた恩景は他にもある。 "Capitano" という異名がついたことだ。発端は2006年W杯の記録映画。映画中のミーティングシーンで、イタリアでプレー経験のあるクリンスマンがバラックを「Capitano(イタリア語で「キャプテン」) 」と呼んだことから、ドイツ中に広まった。
 それまでもバラックには、彼が若い頃にメディアが名付けた"Kleiner Kaiser(小皇帝)" という異名があった。だがいかにも「ベッケンバウアーの縮小版」みたいなKleiner Kaiserよりも、Capitanoの方がオリジナリティーがあっていいし、さらにいいのは、メディア先導の異名ではなく、映画を見たファンの間から自然に広まった異名だということだ。そしてそういう異名がついたのも、クリンスマンが監督に就任したからこそ、なのだ。
 バラックの「監督運」はさらに続く。チェルシーに移籍したシーズン、プレミアのサッカーに馴染めないバラックを、モウリーニョ監督が辛抱強くスタメンで使い続けてくれたこと。他の監督だったらシーズン前半で諦めて、バラックは放出されていたかもしれない(実際、移籍の噂はいくつかあった)。
 モウリーニョが我慢して使い続けてくれたからこそ、バラックは翌年から実力を発揮できるようになり、チェルシーを退団した今なお、ロンドンのファンに愛され続ける選手になったのだ。

 こんなふうに、バラックはそのキャリアの要所要所で幾つもの幸運に恵まれてきた。国際大会でしかバラックを見ない人には、彼は「何度挑戦しても優勝できない、不運な選手」に見えるかもしれない。だが彼のキャリアをずっと見てきた人なら、それは一方的な見方だと感じるのではないだろうか。

⇒続く


バラックは代表キャプテンとなることで大きく成長した。キャプテンとして戦った2006年W杯は、彼のキャリアのハイライトの一つだ。
写真は、2006年W杯開催中のケルン中央駅の天井画。